Yoshiko's Room 2 - よしこの部屋 第二話

わあ、もう9月が終っちゃう、びっくり!! さて『第二話よしこの部屋』の今日は、よしこさん自身が書いてくれた文章そのままを、みなさんにお伝えしましょう!

第一話は、よしこさんが生まれた時のお話しでしたが、今日は小さい頃の思い出と家族のことについて、よしこさんが語ります。

よしこの名前の漢字は "慈子”と書きます。普通は慈を”よし”とは読まないけれど、両親が相談して決めたこの名前の漢字は、『慈悲(じひ)深い人間に育ってほしい』という願いから、聖書からとった漢字だと親から教えてもらいました。
 
そんな私の小学生時代は、喘息(ぜんそく)で始まり 喘息で 終わったという記憶しかないの。今は小児喘息のお薬は簡単に手に入るけど、当時は全くなかったから。その変わり、両親にはとっても大切に愛情沢山沢山 てんこ盛りだったわ。妹二人が あたし達も 喘息に なりたかった!  なんて いわれたくらい。 
 
喘息は季節の変わり目になると発作を起すから、そのために夜通し、両親は私の看病で大変。発作の起きた翌日は、何も食べられず痩せほそっちゃうし、学校は欠席するし。そのたびに先生が自宅にお見舞いといいながら、元気かどうか確認に来てくださっていたわ。
それでも元気にならない時だけ、近所の主治医に強い注射をうってもらうことの連続で、よしこの小学校時代は喘息の思い出しかないの。
 
でも 両親は あらゆる治療を探しては、そのためにお金をかけてくれました。学校に欠席届をひんぱんに出すことが恥ずかしくて、 風邪のため欠席と何度も書いてもらったことは今でも忘れられない、ちょっぴり辛い思い出。     
 
中学生になると、少しでも体が鍛えられるように、 楽しくできることを考えてくれた両親のお陰で、クラシックバレエを習わせてくれました。音楽に合わせ踊ることが こんなにも素晴らしいものだったのかと、それからずっとバレリーナ になりたいと真剣に思ったの。でも高校の時に、やっぱり喘息持ちは体力的に無理だと言われてとってもショックだったわ。(写真の一番右がよしこ)
 
でもそのお陰で、音楽と小さな子供が大好きだったから、 将来的に何か資格がとれる職業を考えた結果、幼稚園の先生になりたいと音大に入ったわけ。当時、いざという時に食べていかれる資格を持ちなさいと教えてくれたのは両親だったわ。
 
そんな私の父は、ピアニストになりたかったけれど、当時はピアニストでは食べていけないと親に反対されて、だったら趣味でやっていこうと独学で勉強し、自分で稼いでピアノと蓄音機(レコードプレーヤ)やレコードを買って、若い頃はオーケストラに合わせて毎日ピアノを弾いていたそう。
 
だから我が家は、父のピアノで1日が始まり、ピアノで終っていたわ。そんなこともあって、私は保育科、すぐ下の妹はピアノ科、その下の妹はバイオリン科に進んだの。3人の男兄弟は、トランペット、フルート、ウクレレと好きな楽器を習わせてくれたわ。(一番下の弟は、毎年ミステリオサマーキャンプの最後の夜のハイライトイベント・キャンプファイアーを演出してくれている"勇”さん。)
 
6人の子供たちを学校に通わせてくれ教育を受けさせてくれた両親は、今思うと、本当に父が一生懸命働いてくれたから。とても大変だったと思う。精神的なサポートは、いつも母が全部受けもっていたわね。
 
毎日のように、家には必ず誰かが遊びにきていたわ。両親は年中 近所の子供達を集めては楽しい会を開いていたのね。
だから、私達3人姉妹は大変よ、とにかく小さい時からよく働かされました。クリスマスには、家に入りきれないほど近所の子供達でいっぱいだった。 会が終わると家族みんなで大片付けと掃除。土曜、日曜日になるとその手伝いの量も倍に増えちゃって。他の友だちが楽しく遊んでいる時は、いつも手伝いで終ったという記憶が強いわね。
22才でお見合いで嫁いだ寺尾家には、病床の義母と、元気いっぱいの義父の他、11人も兄弟姉妹がいて、当時は3家族と同居してたんだけど、小さい頃からの環境のお陰で、大家族には全く抵抗がなかったかなって思うの。
続く、、、、。